東京美術学校を卒業した翌年の1915年目呂二は、当時化粧品のトップメーカーであったレート化粧料本舗(平尾賛平商店)図案部に入社する。
時は、大正デモクラシーの真っ只中。
モダンな空気に満ちあふれる、花の都東京。
もとより竹久夢二に傾倒し、自作の石膏像に着色まで施してしまった目呂二である。
美術館の中に閉じ込められ、限られた人間に向けて創作される、沈鬱な“アカデミズム”よりむしろ市井をモダンに彩り、大衆の気分を華やかに高揚させる“商業美術”の世界に心を惹かれていたことは、想像にかたくない。
まさに、当時最先端といべきサブカルチャーシーンに目呂二も存在し、
やがて同時代の作家たちと供に、昭和元禄を頂点とする戦前の大衆文化の隆盛と成熟を担って行く。
『九美洞』とは、大正期に日本に上陸し人気を博した“キューピット人形”と
古来の狐神“九尾狐”と語呂合わせした、目呂二お得意の言葉遊びである。
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