大衆向けの人形作りや、商業美術界で活躍する傍ら、己の創造の原点である塑像の制作も、やむことなく取り組み続けていた。
当時の帝展の権力抗争に不信を抱き、その不透明な審査制度を痛烈に批判していた目呂二にとって、反官展を唱え、実社会との関わりの中で、新たなる彫刻の価値を創出せんとする美術団体 「構造社」 は、まさに己の意を得た作品発表の場であったといえよう。
昭和5年の第4回構造社展より出品を開始。
その後の幹部会員同士の度重なる内紛もどこ吹く風で、構造社解散に到る昭和18年の第16回展覧会まで、コンスタントに個性的な作品を出品し続けた。
昭和12年(1937年)には、文展(文部省美術展覧会)無鑑査となっている。
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