河村目呂二の生涯
1886年(明治19年) 岐阜県揖斐郡宮地村 (現 池田町) に生まれる。
本名 弘(ひろし)。
大垣中学校卒業後、医師をめざし大阪医科専門学校予科に進学するも、
幼少の頃より得意であった美術の世界への憧憬を捨てきれず、同校中退。
東京美術学校 (現 東京芸術大学) 彫塑科へ入学する。
1914年(大正3年) 東京美術学校彫塑科研究課程を修了。
時はまさに、大正文化の華やかなりし時代。
竹久夢二など、大衆風俗に寄り添う、新たな美術潮流が流行し、
その影響を色濃く受ける。
同年の大正博覧会には、当時は誰も手掛けたことの無い、
傳彩の彫塑作品 『朝』 を出品し、世間を驚かせる。
この頃より 『目呂ニ』 の号を使い始めるが、
これは美術同様好きだった音楽の “メロディ” と、
憧れていた “夢二” の名を、語呂合わせしたものといわれている。
1915年(大正4年) レート化粧料本舗図案部に入社。
同社のグラフィックデザイン・広告宣伝を手がける。
同時に 「あいそめや」 を立ち上げて、当時の大正風俗を表現したフィギュア
『目呂ニ人形』 を企画・製作・販売。
その愛らしく艶かしく、彫塑家の作品らしい確かな造形の人形は、
当時一世を風靡する。
その後、 『MONEY=KEY猫』 『縁福猫(芸者まねき)』 『ラフター』 等々、一連の “猫人形” を手掛けた目呂二は、当時より大の猫マニアとしても有名であった。
東京の風俗と盛り場を愛し、数々の奇言奇行が評判の目呂二であったが、その素顔は、故郷を決して忘れることの無い、物静かで慈しみ深い人格であり、派手な酒呑や奇行は、そんな己の繊細さを隠さんがための言動であったという。
「親のつけた名を、若干の雇用主だという権力で呼び捨てにはできない。」 と、妻にはもちろん、女中にさえも、決してその名を呼び捨てにすることはなかった。
その後、三田平凡寺の趣味蒐集の会 『我楽他宗』 への参画、武井武雄らとの自転車愛好クラブ 『JAZOO MANIA』 の運営、美術団体 『構造社』 への参加など、意欲的な活動を展開するも、太平洋戦争が激しさを増す1944年(昭和19年)、軽井沢追分に疎開して自ら山地を開墾し、この地での定住を決意して、草庵 『木通庵(もくつうあん)』 を結ぶ。
戦後、中央美術界より敢然と距離を置き、号を 「龍興 (りゅうこう)」 と称し、農耕に勤しみ、里山の自然を描き、四季の情景を俳句にして日々を過ごす。
晴耕雨毫の暮らし振りは、そもそも世間的な名声や栄達を好しとしない目呂二の生来望むところであった。
1959年(昭和34年) 9月の夕刻。
いつもの通り入浴して髭を剃り、褌を自ら洗い、座敷に戻って整然と座り、その場で静かに息をひきとった。享年、73歳。
追分の里山のように美しく、穏やかな晩年であった。